日本競馬を造り上げた偉大なるホースマン、浅見国一氏ご逝去


ヤマニングローバル

【スポニチ】浅見国一氏死去 騎手で菊花賞2勝、調教師で785勝
http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2012/05/30/kiji/K20120530003354580.html
 騎手として菊花賞2勝など重賞16勝、調教師としてもオークスを2勝するなど活躍、引退後はスポニチ本紙評論家として健筆をふるった元JRA調教師の浅見国一(あさみ・くにいち)氏が29日朝、病気のため自宅で死去した。90歳。岐阜県出身。通夜は30日午後7時、告別式は31日午後12時半から、いずれも滋賀県草津市西渋川1の2の4、草津シティーホール=(電)077(567)1101=で。喪主は妻文子(ふみこ)さん。

 騎手として564勝、調教師として785勝、競馬界の発展に尽くしてきた浅見氏は先週も栗東トレセンに早朝から姿を見せ、26日にもスポニチ本紙(大阪版)に寄稿したばかり。誰もが言葉を失う突然の旅立ちだった。

 浅見氏は1921年(大10)12月2日生まれ。35年に相羽仙一厩舎に入門、同期には同じくスポニチ本紙評論家を務めた故境勝太郎氏がいる。42年騎手デビュー。50年(ハイレコード)、58年(コマヒカリ)の菊花賞を制し、60、61年には2年連続で関西リーディング騎手に。64年に京都競馬場で厩舎を開業し、67年にヤマピットでオークス制覇。以降もケイキロク(80年オークス)、ヤマニンパラダイス(94年阪神3歳牝馬S)など活躍馬を輩出、重賞42勝の輝かしい成績を残した。進取の気風に富み、それまでタブーとされていた競走馬の小倉への直前輸送を開始。鞍ズレの原因になると嫌われていた馬への負担の軽いゴム腹帯の使用など、現在では常識となっているアイデアを最初に導入した。

 引退後の97年にスポニチ本紙評論家に就任。精力的に関係者取材や調教チェックに励む姿に「評論家兼最高のトラックマン」と言われた。

戦前・戦後の大変厳しい時代に騎手として活躍。
現役引退後は調教師として数多くの名馬を輩出してこられた浅見国一・元調教師が、ダービー翌日の28日、自宅にて亡くなられた。享年90歳。

騎手、調教師として数多くの名馬に携ってきたことは勿論のこと、進取の気風に富んだ改革者として現在の日本競馬に欠かせない様々なアイデア、仕組みを生み出してきた浅見先生。

いま改めて浅見先生の業績を振り返ると、真に偉大な、日本競馬の歴史に欠かすことが出来ない素晴らしいホースマンだったと実感するばかりだ。
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●改革者として

浅見先生は保守的になりがちな競馬の世界において、新しいアイデアを積極的に導入した人物として良く知られている。

記事にも有るようにゴム製の腹帯の導入や、馬運車での当日輸送を初めて試みたことは有名だが、その他にも武豊騎手がアメリカ遠征時に目にした『エアロフォーム』と呼ばれる新しい勝負服を、わざわざ浅見先生自身がアシックスと直接交渉して製作。広く日本で普及させた。

さらに故・戸山為夫調教師と共に、『栗東TCに坂路コース導入を!』と訴え続け、遂に導入させたのも浅見先生だった。浅見先生はまだ坂路コースが存在しなかった頃から、坂道での調教効果に注目。当時森林馬道にあった坂を利用し、管理馬の調教を行っていた。

そしてそれを更に発展させる為に、戸山師や渡辺栄師と共に競馬会に坂路コース導入を要求。その働きかけが遂に実り、1985年には栗東に待望の坂路コースが誕生。これをキッカケに、それまで東高西低だった競馬界の勢力図を、西高東低へと一気に逆転させた話は有名である。

浅見先生が手がけた改革は、どれもこれも現在の日本競馬には欠かせないものばかり。
まさに現在の日本競馬を造り上げた、偉大なる改革者であった。


●騎手・調教師として

改革者として有名な浅見先生だが、勿論ホースマンとしても非常に優れた人物だった。

騎手としては通算3904戦564勝。
関西リーディングを2度獲得し、重賞は16勝。その内、G1級競走は菊花賞や春の天皇賞など4勝を記録している。

調教師としては1964年から1997年の33年間で、7906戦785勝を記録。その内重賞勝ちは42。G1級競走は3勝を記録している。

浅見先生は特に牝馬の管理が得意だったようで、G1・3勝は全て牝馬で達成している。1967年のオークス馬ヤマピット。1980年のオークス馬ケイキロク。1995年の阪神3歳牝馬ステークス勝ち馬ヤマニンパラダイスがそれだ。

しかしその他にもクラシック級の大器と言われたヤマニングローバルや、平地・障害重賞を併せて4勝したメジロワース。そして調教師最後の年に管理した、のちの天皇賞馬メジロブライトなどを輩出しており、牡牝を問わずその馬の個性を上手く引き出す名調教師であった。


●喝采を浴びたヤマニングローバルの再生

私にとって特に印象深いのが、ヤマニングローバルの再生である。

デビュー時から将来を嘱望されていた同馬。デビュー三戦目でデイリー杯3歳ステークスを快勝した時は、『来年のクラシックはこの馬で決まり』と思われたほどだ。しかし同馬は、そのレースで右前種子骨が真っ二つに割れてしまうという、重度の骨折を発症してしまう・・・。

普通ならば、その場ですぐさま安楽死処分となるほどの重傷だったが、同馬の素質を高く評価していた浅見先生は治療を決断。割れた骨をボルトで繋ぐ大手術を敢行し、その後は厩舎に留めて治療に専念。途中、蹄葉炎を発症するなど何度も危ない事態に陥ったが、浅見厩舎スタッフの懸命な努力と、ヤマニングローバル自身の強固な生命力で危機を克服。遂に復帰を果たしたばかりか、復帰後10戦目にあたるG2アルゼンチン共和国杯では、実に2年ぶりとなる重賞勝利を達成した。

普通ならば、既にこの世にいないはずのヤマニングローバルが達成したこの快挙に、浅見先生と厩舎スタッフには多くの競馬ファン、関係者から賞賛の拍手が贈られた。この快挙が見事成し遂げられたのも、馬を愛し、馬の為に全力を注ぎ込んだ浅見先生だからこそだと、いま改めて実感している。


●競馬人として最高の引き際

90歳を迎えてなお、お元気だった浅見先生。
武豊騎手の日記によれば、亡くなられた当日もご子息の秀一氏の厩舎にお顔を出されていたそうだ。
その後はご自宅に戻りお部屋でくつろがれていたそうだが、ご家族の方が気付いた時には、既に息を引き取られていたとのこと・・・。

まさに大往生と言うしかないご最後で、苦しまれることなく静かに息を引き取られるという旅立ち方は、人間として理想的な旅立ち方ではないかと私は思う。

その一生を競馬に捧げ、馬を愛し馬と共に生きてこられた浅見先生。
日本競馬の象徴である日本ダービーの翌日に旅立たれたその姿は、まさに武豊騎手が言うところの『競馬人としての最高の引き際』と呼ぶべき姿ではなかろうか。

人生最後の瞬間まで、ホースマンとしてあるべき姿を示してこられた浅見先生。
その偉大なる事績に感謝の念を抱きつつ、浅見国一先生のご冥福を心からお祈りいたします。


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[ 2012/05/30 22:30 ] 競馬雑談 | TB(0) | CM(0)
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