今も昔も、栗毛の名馬は人気者が多い。
金色に輝く馬体が日の光を浴びて輝く様は本当に絵になるし、鍛え抜かれた筋肉の隆起も相まって本当に芸術品のように思える時がある。
今回訃報が届けられたヤエノムテキも、強さと美しさを兼ね備えた栗毛の名馬だった。
種牡馬引退後も、多くのファンに愛され支えられながら、安らかな余生を送っていた同馬。まだまだ元気なところを見せていただけに、その死が残念でならない。
スポンサードリンク
■ド派手なルックスとは真逆な堅実な競走生活
▼ヤエノムテキ死す88年皐月、90年天皇賞・秋制覇 / スポーツ報知 ヤエノムテキが現役競走馬だった頃、私は小学生だったので残念ながらリアルタイムでの同馬の活躍には接していない。
ただ私が競馬に興味を持ったキッカケが、当時子供の間で流行っていたダビスタやウイニングポストなどといった競馬ゲームだったので、そのゲームの中でヤエノムテキの存在を認識したのが最初だったと思う。
ゲームの中でも中距離で滅法強く、オグリキャップやスーパークリークなどと並び存在感を示していたヤエノムテキだが、私が現実の競馬にのめり込み、過去の映像や本などを読み漁っていくにつれて、その存在感はますます大きくなった。
金色に輝く栗毛の馬体に、端正な顔の正面を縦に走るド派手な流星。当時も相当な人気者だったそうだが、今もし同馬が現役競走馬として走っていたら、アイドルホース的な存在になれたのでは。
当時はオグリキャップという不世出な国民的アイドルホースが同期として存在し、また若き日の天才武豊騎手がコンビを組んでいたスーパークリークという存在もあったことで、どちらかというと玄人好みな馬だったと聞いている。
レース振りなんかは確かに玄人好みで、自身が勝利した2つのGⅠは何れも道中好位の内ラチ沿いで脚を溜め、直線内からスルスルっと抜けるという、ソツの無いレース振りでの勝利。
コンビを組んでいた西浦勝一騎手(現調教師)や岡部幸雄騎手も、いぶし銀といった言葉が似合う渋い騎手だったので、同期のアイドルホースたちに比べて地味な存在(外見は派手だが)だったのは仕方ないのかもしれない。
■種牡馬ヤエノムテキの思い出
天皇賞を勝った年の有馬記念を最後に競走馬を引退し、種牡馬として北海道に戻ったヤエノムテキ。
その数年後、私も厩務員になるために大阪から北海道に渡り、そこで初めて同馬の産駒を介すという形ではあるが、ヤエノムテキとの接点を持つことが出来た。
残念ながらヤエノムテキは種牡馬としてはそれほど活躍出来なかったので、私としてもそれほど印象に残っている産駒は少ないのだが、1頭同馬の代表産駒的な存在となったムテキボーイのことは良く覚えている。
ムテキボーイは南関東で重賞を勝つなど活躍した馬だが、デビューは当時私が在籍していたホッカイドウ競馬だった。
知り合いの厩務員が担当していた馬で、栗毛の父とは違い鹿毛ではあったが、「ルックスの良い馬だなぁ~」と常々思っていたことを良く覚えている。
その当時は日高に住んでいたこともあって、いつかはヤエノムテキに会いに行こうと思っていたものだが、忙しい日々を送っているうちに月日は流れ大阪に帰郷。
ますます北海道への足は遠のき、遂には会う機会は永遠に失われてしまうこととなった。正直残念でならない。
今回ヤエノムテキの訃報に接し、Youtubeで彼の動画を幾つか見直したのだが、今の時代でも充分通用するような、本当に良い馬だったんだなという印象を受けた。
今から2年前、当時27歳のヤエノムテキを映した動画も拝見したのだが、高齢とは信じられないほど若々しく、覇気に満ち溢れていたヤエノムテキ。
名馬とはこういうものなんだと、その姿を見て改めて感心と尊敬の念を濃くした。
日本競馬が一番華やかだった時代に確固たる存在感を示し、素晴らしい蹄跡を競馬史に刻み込んだヤエノムテキ。
その死に際し、心からヤエノムテキのご冥福をお祈りしたい。
▼ヤエノムテキの全競走成績(netkeiba.com) ▼ヤエノムテキの血統(netkeiba.com)
◆1988年 第48回皐月賞◆◆1990年 第102回天皇賞(秋)◆◆在りし日のヤエノムテキ◆
◆ブログ移転しました◆
新しいブログ『馬事総論ドットコム』を開設しました。今後はこちらのブログで更新を続けます。
新しいブログのURLはhttp://bajisouron.com/です。
恐れ入りますがお気に入りの変更をお願いします。
スポンサードリンク